連歌俳諧論
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[22] 蕉風俳諧の成立過程 1 投稿者:丹仙 投稿日:2005/11/25(Fri) 21:07  

―貞門俳諧・談林俳諧から蕉風俳諧へー

貞門俳諧の実例

紅梅千句 (承応二年(一六五三)正月興行)

紅梅やかの銀公のからころも    長頭丸(ちやうとうまろ)
翠(みどり)の帳(ちやう)と見ゆる青柳(あをやぎ) 友仙
堤つく春の日々記かきつけて   正章
よむや川辺の道ゆきの哥    季吟

長頭丸とは貞門俳諧の師、松永貞徳の俳号。季吟は芭蕉の師。紅梅千句の出版に携わる。

千句興行とは、春夏秋冬の句をそれぞれ発句にとって百韻を十巻連ねる興行で、十百韻という。通常、春と秋を発句とするもの各三巻、夏と冬を発句とするもの各二巻、追加表八句を詠んで神社に奉納する。時に、貞徳は八十二歳、貞徳の俳諧がいかなるものであるかを後世に伝えるものとされ、一門の規範書となった。

発句は、漢の武帝の后、銀公の袖の香が梅花にうつり匂ひをとどめた」故事をふむ。

附合は、紅梅→青柳→堤→川辺 日記→よむ のように、縁のあるもの、対照的なものを連ねる「もの附け」が原則。

脇の「帳」は貴婦人の寝室の帳(とばり)であるが、第三の「帳」は堤の普請(堤つくの「つく」は築くの意)でつかう帳面。このように、掛詞によって意味をずらして付けることも行われる。

貞門俳諧の基本は、第一藝術である和歌や連歌をたしなむことの出来ない武士や町民を教化するための第二藝術として俳諧を位置づけたところにある。その俳諧は、連歌では使えない漢語や俗語を自由に使用したが、俳諧としての自律性、独立性に乏しいものであった。

この紅梅千句にあらわれている句風は、談林派の俳諧師達から批判された。たとえば、岡西惟中は「俳諧蒙求(もうぎゆう)」のなかで

「これらの句みな連歌の正真なり。又古事・物語も、かかる仕立ては全くありごとにて俳とも諧とも見えず」

といって、俳諧は滑稽を旨とすべきで、その附合は、「無心」つまり、意味のない「そらごと」であるほうが理屈抜きで面白いというのである。
 
談林俳諧の実例

延宝三年(一六七五) 西山宗因江戸にて十百韻(千句)興行 
開巻の表八句

さればここに檀林の木あり梅の花  宗因
  世俗眠をさますうぐひす    雪柴
朝霞たばこのけむり横折れて    在色
  駕籠かきすぐるあとの山風   一鉄

談林俳諧は、大阪の新興の町民たちに受け入れられた。貴族や武士ではない新しい階級の文藝としてである。その宗匠、西山宗因は、この千句興行のときはすでに七十一歳であったが、当時の江戸の俳壇を圧倒する気力の充実振りを示した。
宗因の付け方は、心附とよばれ、率直で自由闊達な詠みぶりが当時三十三歳の芭蕉に大きな影響を与えた。 翌年芭蕉は、山口信章(素堂)との両吟で次のような二百韻(百韻二巻)を詠んでいる。

梅の風俳諧國に盛んなり     信章
  こちとらづれもこの時の春  芭蕉
紗綾(さや)りんず霞の衣の袖はへて 同
  倹約しらぬ心のどけき     章
してここに中頃公方おはします   同
  かた地の雲のはげて淋しき   蕉
海見えて筆の雫に月すこし     同
  趣向うかべる船の朝霧     章

「梅の風」とは梅翁こと西山宗因の談林風をさし、宗因の十百韻に和したもの。

第三の芭蕉の句は、大阪町民の華美な出で立ちを詠んだものであるが、次の四句では、それを風刺している面白い。公方とは足利義政あたりを指す。芭蕉の「かた地の雲のはげて淋しき」は、漆器の堅地の雲のはげかかった茶器を詠んで、茶道の「さび」の精神をもって承けたもので、後年の芭蕉の附(心付け、匂い附け)を思わせる。

芭蕉はのちに

「上に宗因なくんば、我々が俳諧今以て貞徳が涎をねぶるべし。宗因はこの道の中興開山なり」

と言ったが、同時に談林の華美な詠みぶりを批判する視点も持ち合わせていたと言うべきであろう。

大阪の新興の町民文化を背景とする談林俳諧は、奔放かつ無軌道な詠み方が、やがて質よりも量を重視する「早口俳諧」、井原西鶴の「矢数俳諧」にいたり浮世草子の世界へと吸収されていく。

「近年俳道の盛んなるに任て、千句万句など名付け、早口の俳諧を好むこと、誠に何の味もなき事なり。句は沈思して一句にても心をとめてし出すこそ面白けれ」(岡西惟中)



[21] 蕉風俳諧の成立過程 2 投稿者:丹仙 投稿日:2005/11/25(Fri) 21:06  

脱談林の動き 漢詩文調の採用による新風を起こす。

天和元年(一六八一)「七五〇韻」(百韻七巻、五〇韻一巻)の刊行によって、京都のアマチュアの俳人(遊俳)である、信徳、春澄らから革新の運動の呼びかけが江戸に送られる。これに芭蕉は、同志の才丸、弟子の其角、揚水とともに二五〇韻をつけて、「俳諧次韻」を興行、七五〇韻と併せて千句とした。

鷺の足雉(キジ)脛(はぎ)長く継添えて     桃青
  這句以荘子可見矣       其角
禅骨の力たはゝに成までに     才丸
  しばらく松の風にをかしき      揚水


天和二年(一六八二)「武蔵曲(むさしぶり)」天和三年「虚栗(みなしぐり)」の刊行。

其角(当時二三才)による虚栗序文「此道今人捨如土 凩よ世に拾はれぬ虚栗」

虚栗調の歌仙の例

酒債尋常往処有
人生七十古来稀

詩あきんど年を貪る酒債(さかて)哉 其角
冬湖日暮て駕馬(ノスル ニ)鯉      芭蕉
干(ほこ)鈍き夷(えびす)に関をゆるすらん     同
三線(さみせん)・人の鬼を泣しむ         其角

「宗因用ひられて貞徳すたり、先師の次韻起て信徳が七百韻おとろふ。先師の変風におけるも、虚栗生じて次韻かれ、冬の日出て虚栗落つ」(許六「青根が峯」)

芭蕉俳諧七部集 冬の日 より 

「こがらし」の卷

笠は長途の雨にほころび、帋(かみ)衣(こ)はとまりとまりのあらしにもめたり。侘つくしたるわび人、我さへあはれにおぼえける。むかし狂哥の才士、此國にたどりし事を、不圖おもひ出て申侍る。

狂句こがらしの身は竹齋に似たる哉  芭蕉
たそやとばしるかさの山茶花(さんざか) 野水
有明の主水(もんど)に酒屋つくらせて  荷兮
かしらの露をふるふあかむま  重五

 発句 冬―人倫(竹齋・身)―旅

「狂句こがらしの身」は、風狂の人芭蕉の自画像であろう。「狂」は「ものぐるひ」であるが、世阿弥によれば、それは「第一の面白尽くの藝能」であり、「狂ふ所を花にあてて、心をいれて狂へば、感も面白き見所もさだめてあるべし」とされる。「こがらし」は、「身を焦がす」の含意があるので、和歌の世界では「消えわびぬうつろふ人の秋の色に身をこがらしの森の下露(定家・新古今集)」のような「恋歌」がある。芭蕉はそれを「狂句」に「身を焦がす」という意味の俳諧に転じている。さらに「木枯らし」で冬の季語となるが、同時に、「無用にも思ひしものを薮医者(くすし)花咲く木々を枯らす竹齋」という仮名草紙「竹齋」の狂歌をふまえつつ、名古屋の連衆への挨拶とした。

 脇 冬―人倫(誰)―植物(うゑもの)―旅

「とばしる」は元来、水が「迸(ほとばし)る」の意味で、威勢の良い言葉。芭蕉を迎え新しい俳諧の實驗を行おうとしていた名古屋の若い連衆の心意気を感じる。「旅笠」に山茶花の吹き散る様を客人の芭蕉の「風流」な姿に擬して詠み、「風狂」の人である芭蕉に花を添えたと見たい。

 第三 秋―月(光物)―夜分―居所

第三は、冬から秋へと転じ、有明の月を詠んだ。前句の「とばしる」は水に縁があることばであり、「たそや(誰か)」という問に「主水(元々は宮中の水を司る役人、のちに人名として使われる)」で応じた。俳諧式目では、人倫の句は普通は二句までであるが、役職名は人倫から除外される。なお、この歌仙の詠まれた貞享元年は新しい暦が採用された年であるが、その暦を作った安井算哲の天文書によると、「主水星」とは水星のことである。秋、新酒をつくるために、有明の月の残る黎明、主水星のみえるころに、酒の仕込みをはじめる圖。客人である芭蕉に、まず「一献」というニュアンスもあるかも知れない。

 表四 秋―降物(露)―動物(うごきもの 赤馬)

和歌の世界では、月と露の取り合わせはあるが、そこでは「秋の露や袂にいたく結ぶらむ長き夜飽かず宿る月かな(後鳥羽院)」のように「涙の露」という意味になることが多い。ここでは、そういうしめやかな情念ではなく、おそらく、荷駄に新酒を積んだ赤馬を出したのであろう。露は、おそらく「甘露」の意味をこめて、新酒の香にむせている圖としたほうが俳諧的である。

晩年の芭蕉の俳風 あらびと軽み

「俳諧あらび可申候事は・・・、ただ心も言葉もねばりなく、さらりとあらび仕候事に御座候。」(元禄七年五月十三日、浪化宛去来書簡)

晩年の芭蕉の境涯を示すものとして良く言及される「かるみ」と「あらび」とは如何なる関係にあるか。また、「あらび」と「かるみ」とは何処が違うのか、とくに「あらび」という言葉を芭蕉や去来が如何なる意味で使ったかを正しく捉えるのは難しい。

この言葉は古くからあるが、その元来の意味は要するに「荒らび(洗練されていない、粗野である)」ことだろう。元来は悪い意味で使われた言葉ではないか、と思う。「荒びたる句」とは、風雅の精神とは矛盾する句、素人のような句という意味があったにちがいない。それを敢えてプラスの意味に転じて使うところが、俳諧の俳諧たるところではある。

蕉風俳諧が俳諧の初心である世俗にたちかえり、俗語のエネルギーを吸収しつつ、「世俗の直中における風雅」を目指そうとした、そのへんに「あらび」が、蕉風俳諧のキーワードとなる事情が潜んでいる。

一見すると俗っぽい、荒々しい表現の中に、高雅な表現でも及びも付かないような詩情が表現されることがある。

浪化、去来、芭蕉の三吟歌仙を例にとると

    につと朝日に迎ふよこ雲   芭蕉

は俗語の「につと」を冒頭に置く、文字通り「荒っぽい」句だと思う。あえていえば素人臭い措辞。この時期の芭蕉は、どちらかといえば、凝った句作り、格調たかく見える句(しかし、その實は陳腐な句)を避けることをモットーとしていたと思う。

能楽論では、一度名人の位に達したものが、その位置に満足せずに、あえて俗な表現、掟破りの芸風を示すことを「闌位(たけたる位)」という。一度高雅な表現を身につけたものが、それに満足せずに、自己を否定して、もういちど世俗の世界に帰っていくという意味が込められる。

「去来抄」の先師評では、上の三吟歌仙の付句が引かれている。去来は、最初は

   につと朝日に迎ふよこ雲   芭蕉
 すつぺりと花見の客をしまいけり 去来

と付けたが、これでは、俗語が重なって煩わしい。つまり、「につと」に「すつぺりと」と続いて品のない句になってしまった。世俗に世俗を続けることは芭蕉の望むつけではないと直観した去来は、

   につと朝日に迎ふよこ雲   芭蕉
 陰高き松より花の咲こぼれ    去来

とした。これは一転して連歌風の格調の高いつけにみえる。俗な前句に高雅な景をつけ、しかも、定家の

   春の夜の夢の浮橋とだえして峰にわかるるよこぐものそら

の面影付になっている。こういう付句は、たとえば「冬の日」の時代の蕉風俳諧を思わせるものである。しかし、晩年の芭蕉は、こういうつけかたにマンネリズムを感じていたのではないか。「陰高き」という連歌的な凝った表現を嫌って、素人にも分かりやすい俗語を選び、去来の句をひと直しして

    につと朝日に迎ふよこ雲   芭蕉
  青みたる松より花の咲こぼれ   去来

これが、この時期の芭蕉の目指した付け方なのである。


     此秋は何で年よる雲に鳥   (病床吟)

宮坂静生氏によると、この句こそが「あらび」の生涯句であるという。たしかに「此秋は何で年よる」という口語的な表現と「雲に鳥」とのあいだの「切れ」のすさまじさは、鬼気迫るものを感じる。 俗語を詩語に転じるとか、おもくれを嫌い、平明な表現を尊ぶという点では「かるみ」と共通しているが、「あらび」には「かるみ」にはないもの、あえていえば鬼神をもおどろかす詩情の冴えがあるようだ。

「荒び」「荒きこと」が、元来、負の評価を表す言葉であることは、北村季吟の次の用例を見ると判る。

「(古今集の俳諧歌について)この俳諧歌はざれ歌といふ。利口したるやうの事なり。又、俳諧といふ事、世間には荒れたるやうなる詞をいふと思へり。この集の心さらにしからず。ただ思ひよらぬ風情をよめるを俳諧といふなりと申されし。されど、荒き事をもまじへたるなり」(埋木)

この「あらび」を正の評価語として使用した例が、去来の浪化宛書簡の次の箇所である。
「俳諧は『さるミの』『ひさご』の風、御考被成候而可被遊候(おかんがへなされてあそばさるべくさうらふ)。其内、『さるミの』三吟ハ、ちとしづミたる俳諧ニて、悪敷いたし候へば、古ビつき可申候まま、さらさらとあらびニてをかしく可被遊候(あそばさるべくさうらふ)。俳諧あらび可申候事(まうすべくさうらふこと)ハ、言葉あらく、道具下品の物取出し申候事ニてハ無御座(ござなく)、ただ心も言葉もねばりなく、さらりとあらびて仕候事ニ御座候。尤(もつとも)、あらき言葉、下品の器も用ヒこなし候が、作者の得分ニて御ざ候。嫌申にては無御ざ候(ござなくさうらふ)。」
去来は『さるみの』と『ひさご』の俳風を学ぶようすすめているが、自分も加わった三吟歌仙を「沈んだ俳諧で出来が悪く古びている」と否定的な評価を述べ、「ひさご」は「はなやかな俳諧」であると評している。「さらさらとあらび」て面白い句作りをすべきだと言う去来のことばが、「さるみの」と「ひさご」を対比して、前者を「しずんだ」悪しき古びた俳諧として、後者を「はなやかな」俳諧として評価する文脈で書かれていることに注意すべきであろう。
ここで言及されている猿蓑の三吟とは、凡兆・芭蕉・去来の歌仙である。

     市中は物のひほひや夏の月    凡兆
       あつしあつしと門かどの聲  芭蕉
     二番草取りも果たさず穂に出て  去来

とつづく優れた歌仙であって俳諧の新古今集といわれた猿蓑に相応しい歌仙である。去来は、じみで古びていると否定的な表現を用いているが、それは裏を返せば、猿蓑には「さび」の美があるということでもある。事実、其角はこの歌仙の芭蕉の恋の付句を評して

 「この句の鈷(サビ)やう作の外をはなれて日々の変にかけ、時の間の人情にうつりて、しかも翁の衰病につかれし境界にかなへる所、誠にをろそかならず」(雑談集)

と言っている。冬の発句、それも時雨を季題とするものを巻頭に置く猿蓑は、その序を書いた其角にとっては「さび」の美を表現した句集である。そして、其角は、去来が「軽み」の俳風とよび、また「はなやかな」俳諧と呼んだ「ひさご」は評価しなかった。

これは、其角と去来の芭蕉没後の俳諧の道のあり方と関連するであろう。


[20] 匂ひ−芭蕉覚書 投稿者:丹仙 投稿日:2005/11/08(Tue) 11:22  

芭蕉の俳諧の根本精神を表す言葉を幾つかとって説明致します。今日は第一回目で「にほひ」を取り上げましょう。

「附心は薄月夜に梅の匂へるが如くあるべし」(祖翁口訣)

薄月夜とは、雲などに遮られてぼんやりと月が見える様。くまなく見える月ではない。この美学は、心敬のいう幽玄の美学の系譜に属する。あらわなもの、明るすぎるものは、読者の想像力を働かせる余地がないが故に詩情を喚起しない。「薄月夜の梅の匂ひ」のごとく、かすかなるものほど、ほのかなるもののなかに隠れている美を象徴することーここに蕉風美学の出発点がある。「匂ひ」とはそれをあらわす独特の用語。

「匂ひ」という言葉は、風雅の「風」と縁のある言葉である。風は、多くの言語では「霊」的なもの(インスピレーション)と同義であり、それ自体は言語で記しがたいものであるが、藝術や宗教の生命を象徴する。その風が「雅(みやび)」であって「俗」でないことを要求するのは「風雅」という言葉である。芭蕉晩年の弟子の一人である惟然から、風雅とはどういうものかと尋ねられた芭蕉は、「句に残して俤にたつ」ことだといっている。(一葉集遺語)「句に残す」とは、句のなかで言い残して、却ってその「おもかげ」にたつことが風雅だというのである。

従って、蕉風俳諧では、「言い尽くす」こと「言い畢ほす」ことが嫌われた。たとえば

   下伏につかみわけば糸桜

という句を去来が「糸桜の十分に咲きたる形容よく言ひ畢ほせたるにあらずや」と賞賛したのに対して、芭蕉は、

  「言ひ畢ほせて何かある」

と答えたという。去来はそのとき初めて肝に銘じて「発句になるべきこととなるまじきこと」を知ったと回想している。

「匂ひ」は、しかしながら、発句のような短詩を成立させる技巧と見るべきではない。技巧のような作為は、言うなればクサイのであって、こころの風光を漂わせる自然なる「匂ひ」とは正反対のものだからである。

「附といふ筋は匂、ひびき、面影、移り、推量などと形なきより起るところなり、心通ぜざれば及び難き処なり」(三冊子)

それでは、匂附の実例としてどんな附合があるのかを見てみましょう。鬼貫が幻住庵の芭蕉のもとを訊ねたときの歌仙、「夏木立」の巻から例を引いてみよう。

    うすうすと色を見せたる村もみじ   芭蕉

に対して、どういう付けがよいのか。その場では、次の四句がでたが、どれも芭蕉によって却下された。

一 下手も上手も染屋してゐる
二 田を刈りあげて馬曳いてゆく
三 田を刈りあげてからす鳴くなり
四 よめりの沙汰もありて恥かし

最後に

   御前がよいと松風の吹く   丈草

という付けが出たときに、はじめて芭蕉は印可(OK)したという。芭蕉の門弟達が、この附合を「匂ひ」付けと呼んだことは、俳諧芭蕉談のつぎの言葉に明らかである。

「御膳がよいと云う松風は、うすうすと色を見せたる匂ひを受けて句となる。心も転じ、句も転じ、しまこその力をとどめず、これを「にほひ附」といふ。」



[19] 花の美学 3 投稿者:丹仙 投稿日:2005/08/21(Sun) 13:57  

美のイデア(実相)


爰に私のあてがいあり。性花・用花の兩條を立たり。性花と者、上三花、櫻木なるべし。是、上士の見風にかなふ位也。中三位の上花を、既に正花とあらはす上は、櫻木なれ共、此位の花は、櫻木にも限るべからず。櫻・梅・桃・梨なんどの、色々の花木にもわたるべし。ことに梅花の紅白の氣色、是又みやびたる見風也。然者、天神も御やうかんあり。又云、當道の感用は、諸人見風の哀見を以て道とす。さるほどに、此面白しと見る事、上士の證見〔な〕り。然共、見所にも甲乙あり。縱ば、兒姿遊風なんどの、初花ざくらの一重にて、めづらしく見えたるは、是、用花也。これのみ面白しと哀見するは、中子・下子等の目位也。上士も一たんめづらしき心たて、是に愛づれ共、誠の性花とは見ず。老木・名木、又は吉野・志賀・地主・嵐山なんどの花は、既に、當道に縱へば、出世の花なるべし。かやうなるを知るは上士也。上下・萬民、一同に諸花褒美の見風なるべし。上士は、廣大の眼なるほどに、又餘花をも嫌ふ事あるまじき也。爲手も又如此。九位いづれをも殘さゞらんを以て、廣覺の爲手とは申べし。「萬法一に歸す。一いづれの所にか歸す。萬法に歸す」と、云々。如此、その分+ に依て、自然〔自然〕に、面白き一體のあらんをば、諸花と心得べし。然れ共、兒姿の面白さと、成功の達人の面白さも、同心かとの不審をひらかんがため、性花・用花の差別を申分る也。(世阿弥、「拾玉得花」)
世阿弥は「九位」という述作に於いて、藝道の位を九つに分類しているが、そのうちの上三位をもって「性花」といっている。この場合、「性花」という言葉は、世阿弥にとっての「永遠なる美のイデア」を、「桜の花」という具体的なイメージによって暗喩的に表現したものと言ってよかろう。禅門で云う「見性成仏」の「性」は仏性であり、我々自身の内なる仏性を直観することが成仏であり、我々自身の外に仏を求めないと云う徹底した立場が貫徹されるが、世阿弥は能という藝道に於いて、美の本性を桜の花によってイメージ的に表現したのである。九位のなかで最高の位は、「妙花風」と呼ばれるが、世阿弥が禅門における「妙」の用法を念頭においていたのは間違いはない。

上位
妙花風―「新羅、夜半日頭明らかなり」
寵深花風―「雪、千山を覆ひて、孤峯如何か白からざる」
閑花風―「銀椀裏に雪を積む」
中位
正花風―「霞明らかに、日落ちて、万山紅なり」
広精風―「語り尽す山雲海月の心」
浅文風―「道の道たる常の道にあらず」
下位
強細風―「金槌影動きて、宝剣光寒し」
強麁風―「虎生まれて三日、牛を食ふ気あり」
麁鉛風―「木鼠は五の能あり。木に登ること・水に入ること・穴を掘ること・飛ぶこと・走ること。いずれもその分際に過ぎず」

修道次第
―中初・上中・下後―

下三位からはじめてはならず、中位の「浅文風」から初める。広精風が藝の分かれ目で、そこを突き抜けると、「正花風」から上三位へと上れるが、正花風へいけない役者は下三位に落ちる。上三位の藝に達しないものが下三位を演じてはならない。
しかし、上三位に達したものが、元の高さを失わずに下三位の藝を演じることは可能であり、場合によっては藝が高き位に停滞することを潔しとせず、変化をもたらすために、名人にのみ許されるものとする。このことを世阿弥は、 却来、向却来といい、そういう位を「闌位(たけたる位)」ともいう。

「萬法一に歸す。一いづれの所にか歸す。萬法に歸す」という言葉は、多くの美しいものから一なる「美のイデア(妙花)」への帰還と共に、一なる美のイデアから多様なる美しきものどもへの発出という往還の運動を表現するものである。したがって、世阿弥は九位に分けた位を単純なる上下関係に捉えるのではない。一度、上三位に達した後に、下位の美しきものに下降するのは意味のあることなのであり、また下品なるものも上品なるものに劣らぬ価値を有するが故に、能楽の「美」はあらゆる人に「愛敬」されるべきものでなければならず、決して一部のエリートのみの専有物ではないというのが世阿弥の能楽論の特徴である。



[18] 花の美学 2 投稿者:丹仙 投稿日:2005/08/21(Sun) 13:57  

住するところなき心―無常のなかに花を求める


まさに住するところ無くしてその心を生ず(金剛般若経)

人の心にめづらしきとみるところ、すなはちおもしろき心なり。花と、おもしろきと、めづらしきと、これ三つは、同じ心なり。いづれの花か散らで残るべき。散るゆゑによりて、咲くころあれば、めづらしきなり。能も、住するところなきを、まづ花と知るべし。住せずして、余の風躰に移ればめづらしきなり。(世阿弥「花伝」)

めづらしきといへばとて、世になき風躰をし出すにはあるべからず。(同)

時・をりふしの当世を心得て、時の人の好みの品によりて、その風躰を取り出だす。これ、時の花の咲くを観んがごとし。花と申すも、去年咲きし種なり。能ももと観し風躰なれども、物数を究めぬれば、その数をつくすほど久しし。久しくて観れば、まためづらしきなり。(同)

抑、花とは、咲くによりて面白く、散るによりてめづらしき也。有人問云、「如何無常心」。答、「飛花落葉」。又問、「如何常住不滅」。答、「飛花落葉」云々。
面白と見る即心に定意なし。さて、面白きを諸藝にも上手と云、此面白さの長久なるを、名を得る達人と云り。然者、面白き所を成功まで持ちたる爲手は、飛花落葉を常住と見んがごとし。(世阿弥「拾玉得花」)

ここで引用されている禅的なる問答の典拠は不明であるが、その内容は、対立規定の一致をとく大乗仏教の「矛盾的相即」の論理を、「飛花落葉」というイメージのかもしだす情意の空性のうちに感性的・美的に表現したものである。謡曲「箙」にも

飛花落葉の無常はまた、常住不滅の栄をなし

とある。世阿弥にとって「美の本質」は「時間において」存続しないことによってその永遠性を現す。もし桜の花に散るということが無く、いつまでも咲き続けたとすれば、その花を愛でるということがあるだろうか。それは、まさに「散る花」であり「存続」に執着しないが故に、「美しい」。「飛花落葉」が無常であり同時に常住不滅であるとは、生は死によってあり、死は生に依ってあること、ゆえに生死一如の現実の生成流転のただ中にこそ「永遠の美」を現成すべし、という教えである。それは、時間と存在に関する独特の新しい見方であり、生死の根本問題に対して答える大乗仏教の空觀ー矛盾的相即の論理−を我々の美的構想力の情意の地平に射影し、観想と言語行為、身体的な芸術表現として現成せしめた物なのである。




[17] 花の美学 1 投稿者:丹仙 投稿日:2005/08/21(Sun) 13:56  

一 連歌に於ける「花」の句の扱い

(定座)

連歌では百韻で「四花七月」、歌仙では「二花三月」といい百韻では「花の句」を四句、「月の句」を七句、歌仙では「花の句」を二句、「月の句」を三句詠みこむ。

月、花の句の詠まれるべき場所を「定座」という。この「定座」も最初からきまっていたのではなく、元来は花の句を一巻で適当な箇所配分するということのみが定められていた。しかし、俗に言う「花を持たせる」礼儀を尊重する余り、連衆が互いに譲り合い、折端の短句までいってしまうと、それでは一巻の飾りであり賞翫の花として尊重するという本意が薄れてしまう。したがって、歌仙ならば、折端の前の長句である初裏の十一句目、名残の裏の五句目に必然的に詠まれる場所が定まっていったと思われる。百韻は四折であり「月の句」はそれぞれの折の表と裏に一句ずつ詠まれ、名残の折ではあっさりと終わらせるべき所であるから、そこに月と花の句があるのは煩わしいために「月の句」は詠まないことになっている。歌仙もこれに準じており、「花の句」はそれぞれの折の裏に詠まれることになっている。

(正花)

和歌では「花」といえば「桜」であるが、連歌では「花」といっても「桜」とは限らない。逆に「桜」といっても、それは「花の句」の扱いを受けないということである。四季折々の花には「桜」「牡丹」「木槿」とそれぞれであるが、それらの名を出して句作したときにはあくまでもその個有な植物に限定された花の印象だけになってしまうであろう。それでは、連歌で意図する「花の句」としての意味が失われる。連歌での「花の句」は連歌的美の象徴としての「正花」として詠まれなければならない。

これは「花の句」が一巻全体の「花」であり、「賞翫の惣名」であるとの考えからきている。つまり、定座に「花の句」として詠むことのできる「正花」には、賞美の意が込められていなければならないのである。「花」は、普通は春季としての扱いを受けるが、句の転じ方によっては「花の定座」が春だけではないこともある。そのようなときに用いられるのが「他季の正花」である。俳諧の連歌を例にとると、夏には「余花」秋には「花相撲」「花燈籠」、冬には「帰り花」「餅花」などがある。その他に「雑の花」としては「花嫁」「花婿」などが、正花として扱われた事例がある。

(花の句)

連歌では、ただ単に「桜」といってもそれは「花の句」としての扱いを受けないといったが、その理由は「花」といえば春の句とされるが、「花の句」は四季に咲く花々の美しさを含めての賞翫の総称を意味するものであり、「桜」といっただけでは植物個有の特性を表すだけで賞翫の意はないと考えられるからである。

以上、連歌における花の句の扱いに関する先人の所説を纏めてみたが、これらはあくまでも大体の標準的見解であり、絶対的なものではない。

たとえば、「桜」が「花の句」としての扱いを受けた例もある。『猿蓑』に入集の凡兆・芭蕉・野水・去来四吟「灰汁桶の」歌仙では、名残の折の裏五句目に

  糸桜腹いっぱいに咲にけり

とあり、「花の定座」に「花」の詞がなく、代わりに「糸桜」が詠まれている。このことについて『去来抄』では、
卯七日、猿蓑に、花を桜にかへらるるはいかに。去来日、此時、予花を桜に替んと乞。先師日、故はいかに。去来日、凡花はさくらにあらずといへる、一通りはさる事にして、花婿・茶の出花なども花やかなるによる。花やかなりといふも、よる所あり。畢竟花はさくらをのがるまじとおもひ侍る也。先師日、さればよ、いにしへは四本の内一本は桜也。汝がいふ所も故なきにあらず。ともかくも作すべし。されど尋常の桜にて替たるは詮なからんと也。予、糸桜はら一ぱいに咲にけり、と吟じければ、句我儘也、と笑ひ玉ひけり。

という記述がある。




[16] 親句と疎句 投稿者:丹仙 投稿日:2003/04/19(Sat) 18:50  

「親句は教、疎句は禅」とは心敬の言葉ですが、この言葉のあとに、教と禅の一致という思想を付け加えるならば、それこそが連歌の付合の根本精神を要約したものとなるでしょう。教とは、仏の教えを誰にでもわかるように説いたものですが、禅は、私達の固定された発想、日常性のなかに埋没した仏の本質を目覚めさせます。

心敬の時代に流行していた連歌の特徴は、投句するものが前の句のことを考えずにそれぞれ身勝手な自己主張を展開するものであったと思われます。各人が派手な素材を好み、技巧を凝らして付け句をするが、前句を投じた人の心を無視している。そのために、連歌の技法のみが発達して、付合の心が無視される結果となりました。

「昔の人の言葉をみるに、前句に心をつくして、五音相通・五音連聲などまで心を通はし侍り。中つ比よりは、ひとへに前句の心をば忘れて、たゞ我が言の葉にのみ花紅葉をこきまずると見えたり。されば、つきなき所にも月花雪をのみ並べおけり。さながら前句に心の通はざれば、たゞむなしき人の、いつくしくさうぞきて、並びゐたるなるべし。」

前句の人の心に通い合うものがなければならない−この考え方は、後世の人によって「心付け」とよばれるようになりますが、心敬の場合には、それは必ずしも「意味が通う」ということだけではなく、内容的にも言葉の上でも「響き合う」ものがなければならないということを意味していました。

五音相通・五音連聲とは「竹園抄」という歌論書によると、和歌や連歌の音韻的なつなぎ方の親和性を表現する用語です。「響き」の親句のうち、子音が響き合うものを五音相通、母音が響き合うものを五音連声と呼んだようです。たとえば、「やまふかき霞の...」はK音が響き合うので五音相通、「そらになき日陰の山...」はI音が響き合うので五音連声です。

前句の人の心につけるという場合、心敬が念頭に置いていたのは、新古今集の和歌の上の句と下の句のような一体性であったと思われます。ただし、ただの三句切れの和歌を合作するというのでは、付け句の独立性は失われ、前句の解説をするような従属的な関係になりますから、付け句は独自性と独立性を保ちながら、前句と親和しなければなりません。

心敬が理想とする連歌は、疎句付けでありながら、前句と響き合う付句です。新古今集の秀歌は、定家に典型的に見られるように、疎句表現のものが圧倒的に多いという特徴を持っています。それゆえに、疎句付けとは何か、どのような疎句付けが連歌に生命を与えるかということが心敬の議論のなかで重要な意味を持ってきます。

前句の心を承けることと並んで、前句の何を捨てるか、ということも連歌にとっては大切です。

「つくるよりは捨つるは大事なりといへり」

「捨て所」という言葉がありますが、付け句は、前句のすべてを承けてはならない、のです。(すべてを承けるのは四手といって、連歌の流れをとめてしまう危険がある)かならず、前句の中のあるものを捨てて、新しい風情を付け加えなければならない。そうすることによって、前句から離れることによって、かえって前句の心を生かすことができる、というのが心敬の議論のポイントでしょう。

 心敬がもっとも重んじた歌人は定家とその影響下にあった正徹でした。疎句表現を内在させた和歌が、優れた連歌の規範となっていたということをお話ししましたが、それを裏付けるために「ささめごと」の本文から離れて、藤原定家の和歌を考察しましょう。

若き日の定家は和歌に様々な革命的手法を持ち込んだために、当時の人々にはなかなか理解されず、彼の歌は「達磨歌」(禅問答のような歌)だといって非難されました。一首の上句と下句が一見するところ直接的関係を持たずに別のことを述べているようでありながら、その実、両者の対比のなかで、独特の新しい詩情が成立するごとき歌をかれはたくさん残しています。形式的には、575+77の三句切れであったこれらの歌に内在する対話性が、のちに連歌の付合として生かされていくようになります。いくつかの事例をあげましょう。

仁和寺宮50首から

  春の夜の夢のうきはしとだえして
       峰にわかるるよこぐもの空

  今よりは我月影と契りおかむ
       野はらのいほのゆくすゑの秋

  わたのはら浪と空とはひとつにて
       入日をうくる山のはもなし

  木のもとは日数ばかりをにほひにて
       花も残らぬ春の古里

 これらは、定家の同時代の歌人にはなかなか理解されませんでしたが、連歌が成立したあとの時代を知っている我々からすれば、定家のこういう作品は、まさしく連歌の上句と下句の付合を一首のなかに内在させている歌だということが分かります。それは歴史の順序にそって考えるならば、定家の歌の持っていた対話性、問答性が、後に連歌という形で顕在化したのだといっても良いでしょう。

 定家といえば百人一首の選者でもありますが、この百人一首に選ばれた歌の多くは、上句と下句の間に対話性があることに気づかれるでしょう。そのゆえに多くの人に愛唱され、また歌歌留多のゲームとして愛好されました。上句を聞いて下句の札をとるというゲームには、どこか連歌の付合ににた呼吸が感じられます。

 新古今集は、それ以前の歌集と比べて三句切れの歌が多いのが特徴です。そして疎句表現の歌に秀歌が多く、それらは連歌のなかで本歌として引用されるようになります。

たとえば、式子内親王の

  時鳥そのかみやまの旅枕
    ほの語らひし空ぞ忘れぬ

とか、藤原良経の「祈恋」の名吟

  幾夜われ波にしをれて貴船川
    袖に玉散るもの思ふらむ

などの和歌こそが後の連歌の背景をなす世界であったといえましょう。

三句切れ疎句表現の和歌は決して新古今集のような王朝時代の作品に限ったことではありません。現代短歌でも、たとえば斎藤茂吉の次のような作品はどうでしょうか。

  のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて
    たらちねの母は死に給ふなり

  死に近き母に添寝のしんしんと
    遠田のかはづ天に聞ゆる

  めん鶏ら砂あび居たれひつそりと
    剃刀研人は過ぎゆきにけり

これらはすべて上句と下句が疎句付けになっている短歌です。
最後に、寺山修司の若いときの短歌

  マッチするつかの間海に霧ふかし
     身捨つるほどの祖国はありや

をあげましょう。これは寺山の代表作ですが、上句はある雑誌に出ていた俳句を寺山が借用したというので問題になりました。私の見るところでは、この短歌はもとの俳句とは別のものとして鑑賞されねばなりません。この短歌の詩情は、上句だけにあるのでも下句だけにあるのでもなく、両者がある緊張をはらんで対峙している疎句付の関係にあります。 こういう種類の詩情こそ、連歌が追い求めているところのものに他ならないのです。 



[15] 心敬と芭蕉 投稿者:丹仙 投稿日:2003/04/04(Fri) 21:09  

心敬を「中世の芭蕉」と最初に呼んだのが誰であるのかよく分かりませんが、「ささめごと」、「ひとりごと」などの歌論書を読み、心敬の一座した連歌を読むにつけ、心敬から宗祇を経由し芭蕉に至る道筋が、はっきりと浮かんできました。

    心敬の幽玄論

中世の日本の美学理念の一つは「幽玄」です。この言葉は、論者によって様々に意味が変わりますが、心敬の幽玄論を見てみましょう。

 心敬の幽玄論は、恋の歌ないし述懐の歌について云われている点に特徴があります。彼はまず白楽天の「琵琶行」から左遷された官吏の真情を揚子江上に弾く琵琶の音色にたとえた詩文

 「尋陽江にものの音やみ、月入りて後、このとき、声なき、声あるに優れたり」

 を重視します。つまり耳に聞こえる琵琶の音色も哀れであるが、その音がかき消えて、月も西の山に沈んだ沈黙の瞬間こそが、「声ある」さまにまさる、ということ−ここに幽玄の詩情の原点を見ます。

もうひとつは同じ白楽天の恋の詩、長恨歌の一節

 春風桃李花開日  秋雨梧桐葉落時

です。これは楊貴妃を追慕する詩ですが、この詩の風体を「幽玄躰」とよび、「歌・連歌の恋の句などにも、この風体あらまほしくかな」と結んでいます。ここでは、恋の情念は、直接には詠まれていませんが、それらは余情として、詩文の行間の沈黙の中に切々と湛えられています。

 心敬は恋の句と述懐の句をとくに重視し、四季の景物を読む花鳥諷詠の句の上に置いています。恋と述懐の句は、「胸の底より出づべきもの」であって、決して安直に詠むべきものでなく、他の句にまさって沈思しまた推敲することを薦めています。

     心敬の「さび」論

 語りなばその淋しさやなからまし芭蕉に過ぐる夜の村雨

の一首をしめし「巫山仙女のかたち五湖の煙水の面影はことばにあらはるべからず」と言ったのは心敬です。美の本質は、対象にあるのではなく、その背後の余情において暗示されるべき事−−これが心敬の連歌の「さび」の美学の根本精神です。

「さび」の美学は、心敬以前にも俊成をはじめ様々な歌人が取り上げています。しかし、それらは、文藝上の最高の理念を表すという位置づけを持っているわけではありません。そういう高い位置をもつに至ったのは心敬の連歌論をおいて他にはありません。

  このみちはひとえに余情・幽玄の心・姿を宗として、言い残し
  ことわり無き所に幽玄・感情は侍るべしとなり。歌にも不明体
  とて、面影ばかりを詠ずる、いみじき至極のこととなり。

このような余情・幽玄の美の理念を作品に実現するためには、できる限り言葉をすくなくし、言外に深き余情を湛えさせねばなりません。このような連歌に於ける至極の境地をさして、心敬は「ひえ・さび・やせ」という語を用いました。

  昔、歌仙にある人のこの道をば如何やうに修行し侍るべきぞ
  と尋ね侍れば、「枯野の薄、有明の月」と答え侍りしと也。
  これは言わぬところに心をかけ、ひえさびたる方を悟り知れ
  と也。 境に入りはてたる好士の風雅は、この面影のみなる
  べし。

ここで心敬の言う「ひえ、さびたる」句を重んじる精神こそは、談林風の派手な俳諧から一転して、「誠の俳諧」を求めた芭蕉の「さび、しをり」の美学の源流にほかなりません。      

      心敬の作品から−孤心

連歌は「連衆心」がなければ巻くことができません。しかし、そのような付合のなかで、我々は、それぞれが単独者であるという自覺を持つ場合があります。そういう「孤心」を表明する心敬の付句をあげましょう。

  「我が心たれに語らむ秋の空」という句に

   荻にゆふかぜ雲にかりがね    心敬

「荻には夕風」、「雲には雁」がいて、秋の寂しさの中でもたがいにその心をふれあうこともできようが、この私には自らの心を語るべき相手ももうなくなってしまった、という意味が含まれています。

私は、この付け句を見て直ちに芭蕉の最晩年の句

  「この秋は何で年よる雲に鳥」

を思わずにはいられません。後世の芭蕉が「雲に鳥」によって意味したものが、心敬の付句を見ることによってまざまざと蘇り、はじめてその意味が身にしみた次第です。

     心敬の作品から−発句

応仁の頃、世のみだれ侍りしとき、あづまに下りてつかうまつりける(新撰菟玖波集)

     雲は猶さだめある世の時雨かな     心敬

おもふ事侍りしころ同じ心を(老葉)

     世にふるもさらに時雨のやどりかな   宗祇

興のうちにして俄に感ずることあり、ふたたび宗祇の時雨ならでも、かりのやどりに袂をうるほして、きづから笠のうちに書きつけ侍る(渋笠銘)

     世にふるはさらに宗祇のやどり哉    芭蕉

宗祇と芭蕉の句はよく知られてますが、こう並べてみると、心敬の句がもっともオリジナルであると思いました。宗祇の句は明らかに心敬を意識して作っています。そして芭蕉の句が宗祇の時雨の句を借りたことは明かです。心敬の句には応仁の乱を生きた作者の息づかいが聞こえます。雲は定めなきものですが、その雲でさえ「定めある」と思わせるような乱世を「時雨」によって象徴した作品です。

       心敬の作品から−脇付けの例

   「名も知らぬ小草花さく川辺かな」
 といふ発句に

      しばふがくれの秋のさは水      心敬

発句の作者は蜷川親当で、後世の芭蕉の

     「よく見れば薺花さく垣根かな」

を想起させる句です。こういう句を見ると、心敬の一座した百韻で読まれた連歌と芭蕉の俳諧の風雅の精神との近さが実感できるでしょう。

心敬の脇は、名もなき小草の花の「かそけき」有様を、秋の沢水の「冷え冷えと清みた」風情をもってつけた句です。「しばふがくれの」水は、その身にしみるような清冽さを表には見せない。しかし、このような発句と脇の呼応の中に、心敬は「月花の名句」に勝る詩情を見いだしていたに違いありません。



[14] 五型の説:篇序題曲流 投稿者:丹仙 投稿日:2003/03/18(Tue) 22:45  

六義以上に連歌にとって重要な歌学上の分類は五型説です。これは、もともとは和歌の五七五七七の五つの部分の果たす役割を論じた三五記(定家に擬せられた歌論書)に由来しますが、心敬によって連歌の付句のありかたと関連させて論じられるようになりました。心敬の説明は、用件のある来客が案内を請い、用件を果たし、訪問先を辞するまでの五段階になぞらえて、連歌の五型を説明しています。

   篇:「訪問する家の軒先に佇んでいる」
   序:「取り次ぎをする人に案内を頼む」
   題:「訪問の理由を述べる」
   曲:「訪問の趣旨を説明する」
   流:「暇乞いをしてその家を退出する」

連歌の上句と下句は一体となってこれらの五型を兼備すべきことが要請されています。

たとえば、上句が曲を中心とするものであれば、下句は、曲以外の型をもってつけなければなりません。連歌にとって重要なことは、上の句も下の句も単独ですべての体を備えないように配慮すべきだと云うのです。つまり、一句がすべての型を備えたのでは、付句の必要がなくなりますから、かならず「云われていない部分」を残しておかねばならないという考え方を明確に述べたのが連歌五型論です。

ここから心敬独特の「痩せ」の美学が出ます。これは後世の芭蕉の「細み」の先駆とも言えますが、一句の中に欲張って多くのことを詠み込む句をよしとせずに、かならず言い残された余情のあることを強調します。具体例を挙げましょう。

   「罪も報いもさもあらばあれ」という前句に対して

  月残る狩場の雪の朝ぼらけ  救済

は、前の句には曲(理)のみがあり、それだけでは歌になりません。付句が「篇序題」を言い表しているので、両者が一体となって、はじめて歌になります。前句は「罪も報いもかまうことはない」という享楽的・直情的な発言に過ぎず、意味内容ははっきりしていますが、それだけでは全く詩情のない散文にすぎません。これに対して救済の付句は、疎句付けです。前句に対して、一見関係のない月と雪の景色を出していますが、前句と共に詠むと、「このような風情ある自然の美を前にすると、自分の罪も報いも消え去り、心が洗われるような気持ちがする」という、深い詩情を湛えた歌に変貌します。そして、この救済の句は、「曲」の部分を欠いているが故に、新しい付句によって、前句とは全く異なる世界を拓くことが可能になる。これこそ、すべてを言い尽くさぬことによって、かえって、新しい世界に対する「開け」をもたせるという連歌の美学の基本といえるでしょう。


[13] 六義の説 投稿者:丹仙 投稿日:2003/03/17(Mon) 22:11  

 中国の詩の濫觴である「詩経」の六義説は、紀貫之によって和歌に適用されましたが、心敬はそれを更に連歌に適用しています。それぞれ、どのような歌ないし発句/付句を六義説に当てはめたかを下に併記してみましょう。

   風  そへ歌の心

(古今集序)難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花
(ささめごと) 名はたかく声はうへなし郭公    救済

   賦  かぞへ歌の心

(古今集序)咲く花に思ひつくみのあぢきなさ身にいたづきのいるもしらずて
(ささめごと)出づる日は四方のかすみに成りにけり  救済

   比  なぞらへ歌のこころ

(古今集序)君に今朝あしたの露のおきていなば恋しきごとに消えやわたらん
(ささめごと)下もみぢ塵にまじはる宮居かな    救済

   興  たとへ歌の心

(古今集序)わが恋はよむとも尽きじ有磯海の浜の真砂はよみ尽くすとも
(ささめごと)五月雨はみねの松かぜ谷の水    救済

   雅  ただごと歌の心

(古今集序)いつはりのなき世なりせばいかばかり人の言の葉うれしからまし
(ささめごと) 夏草も花の秋にはなりにけり   寂意

   頌  いはひ心の歌

(古今集序) この殿はうべも富けりさきくさの三葉四葉に殿造りせり
(ささめごと)花椿みがける玉の砌かな    成阿

しかしながら、この六義説はもともと紀貫之が中国の詩論を、かなり恣意的に歌論に適用したという事情があるので、現代の我々から見ると、詩の内容上の分類と技法上の分類が混交しているという欠陥があります。たとえば、風・雅・頌は詩経においては、詩の内容による分類であり、比・賦・興は詩の技法による分類ですが、どうも紀貫之が古今集序文にこの用語を転用するときには、その辺の区別立てが曖昧でした。

そういう観点からみると、心敬が、この六義説を連歌に当てはめた後で、「おおむね六種の心、句ごとにわたり侍りて覚悟あるべし」といっているのは見識があるといえます。



[12] 連歌十体 投稿者:丹仙 投稿日:2003/03/17(Mon) 16:49  

 連歌の付句の分類は様々な観点から行うこととができます。
心敬の分類は、定家の十体論を連歌に適用したものですが、後世の付け句の分類が言葉のつながりだけに着目した技術的なものが多いのに比べると、句の「心」を重視している点に特徴があります。付句の分類といっても、たとえば二条良基の分類もまた後世に大きな影響を与えましたが、それは様式の上の分類であって、価値評価の基準が明示されていません。(平付けや四手、余情、本説など、その後の連歌論や俳論にも引き継がれましたが)どのような付けが理想とされるかという問題が歌学の根本であるとすると、単なる付句の分類だけでは連歌の美学としては物足りない物があります。それに比べると、心敬の分類は、明確に価値基準にコミットしている点でより自覚的な物であるといえましょう。

        幽玄体(ゆうげんてい)

     「わかれ思へば涙なりけり」に対して

    松風の誰がいにしへを残すらむ     救済

幽玄体は疎句づけでなければなりません。前句は、将来の別れのつらさを詠んだものであるが、それを付句では、「いにしへ」即ち過去の物語(源氏物語「松風」の別れか)を面影にしてつけています。松風の音が過ぎゆくように、すべては跡形もなく消えてしまうであろう、という意味。この述懐は、将来と過去とを現在において同時に見るような視座に移ることによって、「時の無常」そのものを詠んでいると解釈できましょう。

     有心体 (うしんてい)  

   「主こそ知らね舟のさほ川」に対して
  奈良路ゆく木津のわたりに日は暮れて    救済

有心とは、広い意味では優れた連歌のすべてについて云われますが、十体のひとつとしては、前句の心を良く汲んでつける親句をさします。掲句では、佐保川→奈良路 と場所の一致を重んじ、自分も前句に最もふさわしい夕暮れ時を配することによて、捨て舟にふさわしい情趣をかもしだしています。

     長高体(ちゃうかうてい)

    「かぞふばかりに露結ぶなり」に対して
   春雨にもゆる蕨の手を折りて    順覺

長高体は基本的に疎句付けです。前句の露(秋)を、春の蕨の新芽に結ぶ露に取りなした句。転換の妙と共に、前句の「かぞふ」に「手を折る」によって応じた句。連歌の第三に要求される「たけの高い」句の体です。

      麗体(うるはしきてい)

    「月こそ室の氷なりけれ」に対して
   三熊野の山の木枯吹きさえて      良阿

ここで云う種類の「麗体」とは、冬の「寒く痩せた風体」のもつ美のことです。これはむしろ心敬自身の「さび、ひえ、こほりたる」風情の美学とも関係するので、あとでまた論じましょう。ここでは、通俗的な「春の花」、「秋の月」の美しさではなく、冬の月、山の木枯のもつ「麗しさ(詩情)」が、心敬によって発見されたということに注意したい。

    濃体(こまやかなるてい)

   「水やのぼりて露となるらむ」に対して
  玉だれの小瓶にさせる花の枝   信昭

 濃体は親句付けで、前句とともに繊細にして典雅な風情を与えるものを指します。

     面白体(おもしろきてい)

     「心たけくも世を逃れぬる」に対して
   みどりごの慕ふをだにもふりすてて    良阿

 これは、物語的な面白さを本説とする句を指すようです。
掲句の場合は、西行の出家に関する説話をふまえているのでしょう。

   一節体(ひとふしのてい)

    「心よりただ憂きことに塩じみて」に対して
  入り江の穂蓼からき世の中

は「ひねり」の利いた句をさします。機知ないし頓知の働いた付句。

     事可然体(ことしかるべきてい)

    「人に問はれむ道だにもなし」に対して
   花の後木のもと深き春の草    良阿

「なるほどもっともである」と納得させる付句。
前句との関係が云われてみれば、非常に筋道が通り説得力がある付句です。幽玄体や麗体とはちがって、情趣よりも理性に多く訴える付句です。

    写古体(しゃこてい)

  「上下をさだむる君がまつりごと」に対して
   絶えず流るる賀茂川の水    善阿

これは、伝統を尊ぶ内容を持つ句です。かならずしも言葉遣いが古風である句に限定されません。掲句は、前句の上下を賀茂川の上下の神社に取りなして、伝統の重さを詠んでいます。

    強力体(がうりきてい)

 「ふしおがむより見ゆる瑞垣」に対して
 これぞこの神代ひさしき宮柱

これは麗体が女性的なのに対して、男性的な力強い付句です。
掲句はさらに荘厳なイメージが伴いますね。

心敬の独自性は、これらの十体のすべてに通じていなければならないということを強調している点です。どれか一つの体を特別視するのではなく、様々な前句に対して、融通無碍に対応できる柔軟な心を重視したことの現れといえるでしょう。


[5] 連歌の歴史-つくば集について-新古今集以後の歌の歴史 投稿者:丹仙 投稿日:2003/03/08(Sat) 21:38  

二条良基の筑波問答に

「後鳥羽院建保の比より、しろくろまたいろいろのふし物のひとり連歌を定家家隆卿などに召され侍りしより云々」

とあるように、連歌が短連歌から鎖連歌へと発展したのは後鳥羽院の時代のころと考えられます。当時は、連歌は和歌をたしなむ人の余興という側面が強く、作品として後世に残すという意識はなかったようです。和歌については数多くの歌合わせが行われ、作品批評の基準についての深い反省もなされ、優れた歌論もかかれていました。簡単にいえば、和歌はすでに「第一藝術」として扱われていたのです。しかし、連歌は、各自が座興の面白さを享受しているだけで、いかなる連歌が優れているのか、そういう根本的な反省がなされていなかった。心敬が、「ささめごと」を著す動機は、端的に言って、勝手気儘に連歌を巻いている人に、新古今集編纂の時代に確立したごとき厳しい文芸批評の基準を、連歌においても確立したいということにあったようです。

連歌の伝統は、心敬の時代においてはまだ浅い物であったけれども、その厳しい文芸批評の基準がむかうべき方向性は、すでに二条良基と救済によって与えられていました。和歌の勅撰集に準じたものとして編纂された「菟玖波集」こそ、連歌の道の手本とすべき風体を与えたのです。

しかし、心敬の時代において、この「菟玖波集」の存在すら知らぬ多くの連歌師が輩出していました。そして、和歌の道自身も、後鳥羽院の時代以後は衰退したという認識を心敬は持っていました。したがって、「ささめごと」は同時代の和歌と連歌を詠む人々に対する辛辣な批判の書としての意味をも持っています。

西行と藤原俊成によって歌道と仏道が一つであるという思想が準備されました。サンスクリット語の真言にかわるものとして、表音文字でかかれたいろは歌が作られたのもこのころでしょう。日本語の文字をすべて使って仏教の教理を述べたこの歌は、和歌が陀羅尼であるという思想を歌の形で体現したものです。

新古今集の編纂によって確立した和歌の美学の伝統を受け継ぎ、それを自覚的に連歌の道として展開させること−これが「ささめごと」という著作の目的です。そのとき心敬が手本としたのが定家に代表される新古今集の歌人達であり、和歌の美学的基準としてすでに確立していた「六義」の説や「篇序題曲流」の説を連歌に適用すると同時に、それらに藝術論としての首尾一貫した体系性を与えることでした。
 たんなる歌の技法を述べたものの多い日本の歌論のなかで、心敬のものがもっとも深く和歌と連歌の本質をとらえていますが、それは心敬が天台宗の教学と禅法(瞑想法)の両方に通じていたことの表れと思います。


[4] 煩悩としての歌道の肯定−対話性の重視 投稿者:丹仙 投稿日:2003/03/08(Sat) 18:56  

「人は一夜の程にも八億のことを思ふ」とは、唐の道綽の言葉「人が憂き世で暮らすには一日に八億四千の思いがある」(安楽集)を引用したものです。ここでいう「思い」の意味は、「煩悩に満ちた思い」のことですから表面的には否定的なニュアンスがあります。
素直に読めば、ここは「和歌や連歌について自分の思いを書き記すのは、煩悩の業であるから、なんと罪深いことであろうか」という意味になるでしょう。 しかし、この文については別の読みも可能です。
それは、煩悩とよばれたその「思い」を抑圧し、何もなかったかのように振る舞うことのほうがかえって罪深いことだ、という読みです。

テキストの解釈そのものが両義的ですが、私は、このような読みのほうが「ささめごと」の著者にはふさわしいと思います。つまり、歌論や連歌論に執着するということは煩悩のなせる業ですが、煩悩を抑圧して、さもそういうものがなかったかのようにふるまうことがかえって罪深いことだという考え方があると思います。なぜ、心敬はこのような連歌論を書いたのか−それは、一夜に八億といわれるような連歌への思いを抑えることができなかったからでしょう。

「露ばかりもかたへの人の上にはあらず。たゞふたりが此の道に踏み迷ひぬるたづたづしさを、たがひに語り侍るなり」

でいう「ふたり」という言葉に注目したい。心敬の連歌論の特徴は、そのうちに秘められた「対話性」です。著者と読者、あるいは問いかけるものと答えるもの−その対話性が、「ささめごと」という著作を生彩あるものとしています。その「ふたり」は、ともに連歌という「煩悩」に迷わされながらも、この煩悩を振り捨てずに、その道を歩み通すことによって仏の道に達することを願う存在であり、ともにたどたどしい仕方で、連歌の道を模索している存在です。だから、第三者のことは問題としていない。世の人がどう思うかではなく、「私とあなたがどう考えるか」が大事なのである−−そういう心敬の「ささめごと」(つぶやき)が聞こえます。

       追記

狂言綺語の説は、心敬だけのものではなく、もともと『和漢朗詠集』に収録された白氏文集の巻七十一

我有本願、願以今生世俗文字之業、狂言綺語之過、轉為将来世々讃仏乗之因、転法輪之縁也。

に基づくもので当時の多くの人々に共有されていた考えです。しかし、この言葉が、芸術家の主体的内面的な自覺として語られた事例はさほど多くありません。心敬に先行する例として

  身につもる言葉の罪もあらはれて心すみぬる三かさねの滝 
(山家集巻下 雑)

 があります。言葉の罪とは狂言綺語の罪ですが、しかし、この歌に続けて西行は

  こここそは法説かれたる所よと聞く悟りをも得つる今日かな

ともよんでいます。この西行の歌が新古今集のなかで最も多くとられたということは、新古今集の時代の歌人達の間で、狂言綺語の和歌そのものを、陀羅尼(仏の真言)として受容する西行的な考えが受け入れられていったとも考えられます。

  願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ

という西行の歌は、二月十五日の月(仏教の悟り、真如の月)に桜の花(日本の風土に花開く和歌という藝術)を取り合わせることによって、仏道と歌の道の究極において一なることを詠んだものといえるでしょう。

こういう考えは藤原俊成の晩年の歌論書である「古来風体抄」にもみられます。彼は歌の修行を天台宗の止觀(瞑想法)になぞらえた後で

「彼は法文金口のふかき義なり。これは浮語綺語のたはぶれに似たれども、ことのふかきむねもあらはれ、これを縁として仏の道にもかよはさんため、かつは煩悩すなはち菩提なるがゆえに、法華経には、若説俗間経書略之資生業等皆順正法といひ、普賢觀には、なにものかこれつみ、なにものかこれ福、罪福無主我心自空なりととき給へり。よりていま歌の深き道を申すも、空假中の三諦ににたるによりて、かよはしてしるし申すなり」

と云っています。このような藤原俊成の自覺は、のちの正徹物語のなかでは、「和歌仏道全二なしとしめしたまひしかば、さてこの道のほか、別して仏道をもとむべからずとて、いよいよこの道を重きことにしたまひし」というエピソードとして語られています。

心敬の場合は、俊成や慈円のような自信に満ちた口調では語っていません。むしろ、みずからを「おぼつかなき」ものとして、また「たづたづしき」言葉を吐くものとして位置づけていますが、仏道と歌道が究極において一つであるという信念は「ささめごと」の基本的な思想です。



[3] ささめごと本文 序−連歌の歴史−つくば集について−新古今集以後の歌の歴史−昔の連歌と中頃の連歌−その相違点について 投稿者:丹仙 投稿日:2003/03/08(Sat) 18:03  

[序]

 世の中のはかなきむつ物語の折ふしには、踏み知らぬ和歌の浦わのくらき道まで互ひに忍びあへず、うち出でぬる言の葉のすゑ、うつゝ心なき事に侍れども、これは伏屋がしたのさゝめごとなれば、壁の耳もおぼつかなからず。人は一夜の程にも八億のことを思ふとなれば、跡なし事につれなしづくり侍るも、罪深きわざなるべし。又、露ばかりもかたへの人の上にはあらず。たゞふたりが此の道に踏み迷ひぬるたづたづしさを、たがひに語り侍るなり。

[連歌の歴史]

 やまと歌の道は、昔より代々のあつめに、伊勢の海の渚の玉のかずかずをみがき、和泉の杣木のしなじなをけづりつくし侍れば、今さらのことにあらず。連ねる歌もおなじ道に侍れども、近き世より尋ねいりぬれば、筑波山のこのもかのも奧殘りて、ほのぐらきかたのみ多く侍り。
 まことに、歌の道は天の浮橋の末とほく、世々につぎて賢き人の踏み知らせ侍れば、いかなる誰かたどり侍らむ。連ねる言の葉も、萬葉に書きあつめし行くへ代々に朽ちせず。その末、水無瀬川より流れ出で、色をそへ數を連ぬることとぞなり侍る。かの百年あまりの末つかた、世にふたりみたりの賢き色好み出でて、盛りにもてはやし侍るより、道ひろき事になれるとなむ。又、此の末に、名高き聖出で給ひぬ。彼の御代に、ひとりの賢き色好み殘りて、ひめもすに夜もすがら御床の末をあたゝめて、さまざまの道の光を定め給ひしかども、一代の御事なれば、光もうすくや侍りけむ。

[つくば集について]

 さて、その二條の名高き聖の御代に、かの賢き色好みに仰せ合はせ給ひて、筑波集とて、いみじきさまざまの姿をつくして集めおき給へる、此の道の光なるべき物に侍るやらん。
 かのつくばの言の葉は、古今集にずむじて、道の光にこよなうおぼしめし置ける物なれば、此の道に心ざしのともがらは、此のさまざまの形に心をとゞめて、尋ね知るべき物と見え侍り。しかはあれど、中つ比より名をだに知らぬものになり侍るとかや。されば、しるべなき道になりて、たがひに心のまゝの事になり侍るとなむ。

[新古今集以後の歌の歴史]

 又歌の道も、中つ比よりは品くだり侍るよしうけたまはる。さもなり行きぬることやらん。
 古人の申し侍るは、水無瀬の宮の御代にぞ、古にもをさをさこえたる歌の聖、數を盡くしていまそかりける。さまざまの姿をおこし、道の奧をきはめ、世にときめき給ひしこと、ひとへに此の御時と見え侍り。しかはあれど、程なく後の嵯峨の院の御比より、言の葉の露も色うつろひ、心の花も匂ひすくなくなり侍るとなむ。それよりこの方はひたすらの事にて、あさはかになり行き侍りしを、源の金吾と申す人、冷泉の黄門につき給ひて、年久しく此の道を學びて、古のことをも知り、和歌の道をもおこし給へるとなり。かの聖に賢き和尚生まれあひ給ひて、いときなきより年たかきまで、言葉の林の奧をたづね、心の泉の底をつくして、水より出でたる氷のごとく淺き深きを照らし給へり。彼の光や薮しわかざりけむ。又、そのかみの心言葉をも、世にひろく知れることになり侍るとなむ。

[昔の連歌と中頃の連歌]

 彼のふたりみたりが賢き比の言葉の色と、中つ比の花をとぶらひ侍るに、太山の烏・河邊の鷺のごとく見え侍るとなむ。さもかはり行き侍るやらむ。
 先達申し侍りし。まことに、いかなるひがめにも、遥かにこそかはりて見え侍れ。昔の人の言葉をみるに、前句に心をつくして、五音相通・五音連聲などまで心を通はし侍り。中つ比よりは、ひとへに前句の心をば忘れて、たゞ我が言の葉にのみ花紅葉をこきまずると見えたり。されば、つきなき所にも月花雪をのみ並べおけり。さながら前句に心の通はざれば、たゞむなしき人の、いつくしくさうぞきて、並びゐたるなるべし。前句の取り寄りにこそ、いかばかりあさはかなる言葉も、あらぬらうたき物には成り侍るものなれ。

[その相違点について]

 昔の人の言葉に、中つ比の心ざまかはれるとは、いかさまに侍るやらむ。

 古人の句は、言葉姿をばかたはらになして、心を深く付くると見え侍り。前句の取捨の心かしこく侍り。近比はたゞ言葉どもを取り分けて付けたるのみなり。

      吉野山二たび春になりにけり
         年のうちより年をむかへて 後鳥羽院

此の比の句ならば、吉野付かずとや申し侍らん。

       さゝ竹の大宮人のかりごろも
         一夜はあけぬ花のしたぶし 定家卿

今の人の句ならば、大宮人狩衣不付と可申哉。

       結ぶ文にはうはがきもなし
         石代のまつとばかりはおとづれて 順覺

上書付かずと申し侍るべし。

       さほ姫のかつらぎ山も春かけて
         かすめどいまだ嶺のしら雪 家隆卿

さほ姫・かつらぎ、なしと可申候。

         結ぶの神にすゑも祈らむ
      いく夜とも知らぬ旅ねの草まくら 信照

神・祈る、付け落したるなるべし。

         舟こぐ浦はくれなゐの桃
      唐國の虎まだらなる犬ほえて 周阿

舟付かぬなるべし。

         うはぎにしたる蓑をこそまけ
      かりそめの枕だになき旅寢して 良阿

此の比ならば、ひとへに前句に付かぬなるべし。

         馬おどろきて人さわぐなり
      はや川の岸にあたれるわたし舟 救濟

馬付かずと申し侍るべし。

此等句ども、前句捨所かしこきゆゑに、最上秀逸なり。如此たぐひ不可勝計、しるすにいとまなし。つくるよりは捨つるは大事なりといへり。



[2] ささめごとのテキスト 補足 投稿者:丹仙 投稿日:2003/03/08(Sat) 17:32  

ささめごとのテキストは基本的に二つの系統があります。ひとつは江戸時代に出版された「版本」系のテキスト、もう一つは群書類従に収録されたテキストです。それぞれ異本があり、本文を確定するためには文献学的な慎重さが求められます。ここでは、版本系のテキストから、天理本を底本として、「ささめごと」を読んでいくことにします。岩波文庫に収録されている「中世歌論集」(久松潜一編)のテキストは、版本系なので、それとほぼ同じですが、若干の箇所でそれに従っていません。他に、小学館の「日本古典文学全集」所収の「連歌論集」(1973)に伊地知鐵男氏の校訂で「ささめごと」がありますが、これは類従本系で、かなりテキストが異なります。

テキストの違いは、おそらく心敬が晩年になってから、ささめごとを改訂しようとして果たせなかったことからくるものと推定されますが、どちらのテキストも基本的には心敬の思想を伝えるものと考えられますから、両者をともに考察することが必要です。

それでは、まず、ささめごとのテキストを見てみましょう。
ここでは主として

木藤才蔵著 「ささめごとの研究」臨川書店 1990

所収の天理図書館蔵本を底本としたテキストを使います。
テキストの異同については必要が生じたときに言及することにしましょう。



[1] 「ささめごと」 を読む 投稿者:丹仙 投稿日:2003/03/08(Sat) 12:29  

『ささめごと』のテキスト

(一)版本系
1 元禄三年版本 上下二冊

このテキストは岩波文庫「中世歌論集」に、栗山宇兵衛開版本として翻刻されている。

2 内閣文庫本 上下一冊 江戸時代中期の写本
版本と同じく情感に欠落二箇所あり。

3 静嘉堂文庫本 上下一冊 松井博士旧蔵本
奥に連歌二五徳をかかげ、(里村?)昌億の朱書で元禄三年栗山宇兵衛開版本と対校してある。この本の下巻は、あとにあげる苔筵本と同一系統で、他の諸本の下巻とは異なる。

4 日本歌学大系本 室町時代古写本
日本歌学大系第五巻に「心敬私語」として載せてあるもの。
この本も静嘉堂文庫本も、上巻巻末に奥書があり、その後と下巻の巻末に

 文名七年九月一五日   宗祇

とあるので、宗祇の所持していた本を書写したものと思われる。

5  山岸文庫本  上下一冊
6  久松本    上下一冊 久松博士蔵
7  神宮文庫本  上下一冊 
8  彰考館本   上下一冊
9  尊経閣文庫本 上下二刷  室町時代の古写本
10 天理図書館本 旧佐々木信綱博士所蔵本

11 連歌鈔本 上一冊 七海平吉氏蔵
「心敬自撰自筆」と記してある本。奥書なし。室町期をくだらない写本。
12 太田本 上一冊  太田武夫氏蔵
13 苔筵本 下一冊  神宮文庫所蔵
上巻には「老のくりごと」「心敬僧都十躰和歌」を収める。

(二)群書類従本とおなじ系統のもの

14 群書類従本 上下二冊

群書類従巻304に収録
下巻の奥書には、心敬自筆本を写したとある。

15 国立上野図書館本 上下一冊


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