桃李歌壇  梅足漢詩集

漢詩の間道と細道

(「漢詩の小道」続編)

 ★★★★★★★★★★ 間道 ★★★★★★★★★★

規則は、あくまで万人向けの指針であり、「漢詩の小道」の作法の
成り立ちのところでも述べましたが、過去の名作を帰納法的にまと
めたところ、このような傾向があるというに過ぎません。又、漢詩
が科挙の試験科目でもあったことから、優劣をある程度客観的に判
定する手段としての性格も増してきたように思います。
古来、名作といわれるもののなかにも、規則を逸脱しているものが
あります。逆に、名作であるが故に枠の中に納まりきらない力があ
るのかもしれません。


★★名作の力★★

かの李白がその詩を見て、同じ主題で作詩するのを憚ったという、
崔〓の「黄鶴楼」をみてみましょう。

|烟|日|芳|晴|白|黄|此|昔|
|波|暮|草|川|雲|鶴|地|人|
|江|郷|萋|歴|千|一|空|已|
|上|関|萋|歴|載|去|余|乗|
|使|何|鸚|漢|空|不|黄|白|
|人|処|鵡|陽|悠|復|鶴|雲|
|愁|是|洲|樹|悠|返|楼|去|

これを平仄の記号で表すと以下のようになります。
(○:平字、●:仄字、△:両用、◎:押韻)

|○|●|○|○|●|○|●|●|
|○|●|●|○|○|●|●|○|
|○|○|○|●|○|●|△|●|
|●|○|○|●|●|●|○|△|
|●|○|○|●|△|●|○|●|
|○|●|●|○|◎|●|●|○|
|◎|●|◎|●|◎|●|◎|●|


第三句がなんだか変ですね。そうです。平仄が破格であります。そ
れでも李白を唸らせたのですから、これも名作の力と言えます。

ここで、「漢詩の小道」をよく読まれた方は、「冒韻」という違反
(韻に使用したグループの漢字を他の部分で使う)も犯していると思
われるかもしれませんが、第四句の「◎◎=悠悠」は「畳韻」とい
う修辞法が使われている為、認められます。これも「間道」の一つ
ですね。


では、規則を少しでも緩和できる「間道」を辿ってみましょう。

★★粘法の救世主「不粘格」★★
(記号:○=平字、●=仄字)

まず、粘法のおさらいをしておきます。
これは、全体の句のヨコの関係で、それぞれの句の二、四、六字目
をヨコに並べると
|○|●|●|○| 又は、|●|○|○|●|
とならなければならないというものでした。

次の詩をご覧ください。

王維「送元二使安西」(※は「さんずい」に「邑」という字です。)

|西|勸|客|渭|
|出|君|舎|城|
|陽|更|青|朝|
|關|盡|青|雨|
|無|一|柳|※|
|故|杯|色|輕|
|人|酒|新|塵|

この平仄を記号であらわすと次のようになります。

|○|○|●|●|
|●|○|●|○|
|○|●|○|○|
|○|●|○|●|
|○|●|●|●|
|●|○|●|○|
|○|●|○|○|

この詩は、各句の二、四、六字目をヨコに並べて見ると、
|○|●|●|○| 又は、|●|○|○|●|
となっていませんね。ちょっと似ていますが、
|●|○|●|○|と|○|●|○|●|
になっています。

このようなものを「不粘格」と言い、「拗体」の一種として許され
ます。

「拗体」とは、まあ変則と言ったようなものです。
「「奇句」(すばらしい句)生じたならば拗体も可なり」と言われ、
古来、拗体に作ってあるものには「尋常ならざるもの」が多く、こ
のような詩に接した時、作者の思いを察するのも楽しいと思います。

このことを私たちの作詩にあてはめて考えてみますと、すばらしい
「奇句」かどうかはともかく、「この一句、このフレーズだけはど
うしてもここに置きたい」というものができ、その時「粘法」がう
まく守れないとなったら、「拗体」を適用されてはいかがでしょう。
これによって、平仄規則のヨコのパターンが倍増することになりま
す。これまさに間道なり(笑)。


★★踏み落とし★★

七言絶句で、第一句に韻を踏まないですますことができます。この
場合、仄声の字を使用することになり、これを「踏み落とし」と言
います。

起句と承句が対句の場合、許されるようです。

これとは反対に、五言絶句では、第一句は押韻しないことになって
いますが、押韻しても構いません。

「踏み落とし」について一言。
韻字は通常平声の漢字を使います。平声のリズムは平坦な発音で、
言わば終止符の役割もしていると思います。従って、陰陽説でいう
ところの「陰」となる偶数句の末で、まず一区切り、そして、字数
の多い七言では、起句の末尾でも一区切りというのが基本となって
います。
しかし、対句のように「二句一解」として緊密に連続した二句を認
識するには、途中に終止符があってはまずい。だから、「踏み落と
し」て次ぎを促すリズムを持つ仄声の字を使うのではないかと考え
ています。


★★挟み平★★

転句に限って、下三字「○●●」とするところを、「●○●」とす
ることができまして、これを「挟み平」と言います。この場合、
「二六対」の規則は当然崩れます。

例:李白「越中覧古」「宮女如花満春殿」=「○●○○●○●」


★★救拯法★★

「救拯法」とは、「作詩はクロスワードパズル??」の「タテ(一句
の中)のカギ」で述べた規則の中の、[下三連禁](下の三文字が同
じ平仄なのはよくない)と[孤平の禁](平字一字が仄字に挟まれて
いるのはよくない。)を破らざるを得ない時の救済手段です。

問題が生じた場合、連続する奇数句と偶数句の同じ位置の文字間で、
平仄が対称形となるようにしてリズムの乱れを救済する方法です。

例えば、転句の末三字が「●○●」なら、結句の末三字で「○●○」
にしてバランスをとるというものです。

実作の例として杜牧「遣懐」の転結、「十年一覚揚州夢、占得青楼
薄倖名」は、「十年一」●○●に対して「占得青」○●○によって
救っています。
又、「名作の力」で紹介しました崔〓の「黄鶴楼」も、第一句と第
二句、第三句と第四句、さらに第五句と第六句の末尾三字にそれぞ
れ「救拯法」を適用しています。


★★同字の繰返し★★

「同字の禁止」とは、同じ文字を使ってはいけないという規則でし
た。しかし、お気づきの方も多いと思いますが、律詩など八句以上
の句からなる漢詩の場合、同じ熟語が繰り返しでてくることが多い
です。これは長い詩の場合、畳み掛けるように語ることによって、
イメージを保つ為の技法だと思います。
「名作の力」でご紹介した崔〓の「黄鶴楼」もこの繰返し法を使っ
ています。


★★★★★★★★★★ 細道 ★★★★★★★★★★

ちょっとだけ漢詩の世界の奥の細道を見てみます。
やや歩きにくいです。

★★和臭の回避★★

「和臭」とは和製漢字「国字」や和製熟語を使用することです。

「漢詩は中国に通じなければならない」とよく言われます。
ここで言う「中国」とは「中国人の中で中国の古典を読める人」の
ことであって、単純に現代の中国のことではありません。第一、中
国の現代と古典では、押韻平仄の基本である四声が全く違うのです
から。

「国字」は韻の無いものが全てそうですから、韻の載っている漢和
辞典を見ればすぐに判別できます。

和製漢字=「国字」の例:
匂、峠、枠、笹、躾、辻、麿、鰯、など

問題は、和製熟語、特に日中で意味の異なる熟語を、どうするかで
す。基本は、もちろん使わないということになります。では、どう
見分けるか。
ある程度の漢和辞典であれば、熟語にその出典が記載されています。

例えば、
「陽春」:[意味1]暖かな春。
     [出典]李白。春夜宴従弟桃李(又は花)園序「陽春召我
         以煙景」。
     [意味2]高尚な音楽の名。
     [出典]岑参。和賈至舎人早朝大明宮之作「陽春一曲和
         皆難」。
「白雪」:[意味]古曲の名。
     [出典]「陽春白雪」

従って、出典の無いものは使えないということになります。

和製熟語の例:
「乾坤一擲」「実権」「乱脈」「律動」「物欲」「異様」「短兵急」
「神殿」「精精」「緒戦」「近郷」「返信」「開催」「蜃気楼」


又、日中で意味の異なる熟語については日中辞典で確認するという
ことになります。「中」と言っても先ほども述べました通り「中国
の古典」です。
皮肉な例が「漢詩」です。日本では「漢詩」と言えば「漢文の詩」
全体をさしますが、中国では、「漢文の詩」全体は「詩」と言い、
「漢詩」は「漢の時代の詩」をさします。

ここまでやれば完璧です。

もちろん、「固有名詞」は平仄を度外視して使用できます。が、な
るべく平仄の合う位置に配置できればそれに越したことはないと思
います。

しかし、こうして見てくると、いったい誰に見せるのかという素朴
な疑問を禁じ得ないのも実感です。

ところで、新語をどうするかという問題が残っています。
日本語には新しい概念をどしどし熟語にできるよさがあり、当然な
がら詩語、即ち中国の古典にはありません。この場合、漢文法を基
に熟語を作ることになりますね。


★★畳韻★★

「畳韻」とは、同じ韻の漢字を二つ並べて表す擬態語・擬声語です。
これにより、美しい響きを持つと思います。

例:
「前川」「荒涼」「従容」「優遊」「逍遥」「爛漫」


★★双声★★

「双声」は、最初の音が同じ漢字を二つ並べて表す擬態語・擬声語
です。これにより、音律を美くしい響きを持つと思います。

例:
「参差(S音)」「髣髴(H音)」「磊落(R音)」「流浪(R音)」
「零落(R音)」


「双声」も畳韻も共に、美しい響きで人間の感情に訴える技巧なの
です。


★★語順★★

これは私たち日本人が読む時の為の技法です。
「和臭」のところで出てきました「漢詩は中国に通じなければなら
ない」と矛盾するようですが、私の見た漢詩作法書では語順のこと
が触れられています。

即ち、返り点のパターンのことです。
起句がレ点で返るなら承句は一二点で返るような具合に、単調にな
らないよう、配置するのがよいとされています。但し、「対句」の
ところでも触れますが、「対句」の場合には、その対称的な性格上、
対となる二句の返り点のパターンは同じでなければなりません。
又、一句の中で、あんまり、ヒックリカエルところの多すぎるのも
よくないとされています。
もちろん、全く返らない句もあって構いません。構わないどころか、
上から下へ音読みですらすら読めて、私たち日本人の頭に入りやす
いと感じています。


★★対句★★

連続する奇数句と偶数句の間で、意味・内容が対称的で、且つ文法
的には同じ語順の二句を対句といいます。律詩の第三句と第四句、
さらに第五句と第六句は対句にする約束になっています。
「二句一解」と言われますが、一句だけでは十分汲み取れない内容
も、二句を対称的に読み解くことによってそれぞれの意味が限定さ
れ、明確に理解できる。
さらには相乗的な効果を得るというものです。

意味・内容が対称的で、且つ文法的には同じ語順という規定からは
離れますが、連続する二句を合わせ読んで一つの意味になる。例え
ば、先の句に主語があって次の句に述語があるようなもの。これを
「二句一意」と言いますが、これも「流水対」と呼ばれる対句の一
種です。その心はやはり「二句一解」にあります。

七言絶句の押韻のところで、第一句と第二句が対句の場合は押韻し
ないとして「踏み落とし」というものをご紹介しましたが、対句を
「二句一解」として連続して読み取る為には、途中に終止符の働き
をするような脚韻が無いほうがよいのは明らかでしょう。


★★五と七★★

五と七という数字についてちょっと考察してみたいと思います。

陰陽説というものがありますが、この中で、偶数は静的且つ安定し
た数で陰、奇数は動的且つ不安定な数で陽とされています。つまり、
偶数は治まりが良くそのままで完結している。それに対して奇数は
変化しようとする性向があるというか、常に次に移る・続くという
性質を持っていると言えます。

完結していると言えば、二字や四字の熟語は簡潔明瞭で押しも押さ
れもしない独自の観念を表しています。これが奇数だと何か落ち着
かない気持ちがしませんか?
又、野球の応援で選手の名前を連呼することがよくありますが、そ
の時、「○○○」と三音で連呼するのが最もしっくりしますね。四
音だとその内の二音を早口で言ったりしてちょっと不自然です。あ
る一まとまりの言葉を連続して呼び続けるには三音がぴったりだと
いうことです。

従って、漢詩や和歌・俳句のように句が連続して配置され、余韻余
情を抱えながら密接に繋がっていくものは、一句の構成が奇数であ
ることが適しているということが言えると思います。

余談ですが、漢詩も詩経などの時代には一句四文字のものが多くあ
りました。その頃は、詩と歌がほぼ一心同体の状態であり、歌の場
合、古くは踊りとあいまって偶数の拍子が合っているようです。因
みに、能などの謡では六拍や八拍だそうです。

ここまで、漢詩と和歌・俳句を同じように扱ってきましたが、お気
づきのように各々の最小単位は、漢詩は字であり、和歌・俳句は音
であります。
これについては、このように考えています。
文字文化が古くから発達してきた中国では「文字」のイメージが文
明・文化としての人間の脳に完全に定着している為、偶数・奇数の
識別を文字数で自然に行っている。それに対して、文字文化が自生
する前に強制的に異文化のものとして移入された日本では、「文字」
のイメージが文明・文化としての人間の脳に定着するよりも、まだ
まだ「音」のイメージが強く残されている。この結果、漢詩は文字
の数、和歌・俳句は音の数が奇数として詩が構成されていると考え
ます。

さらに、漢詩の句数は偶数で、和歌・俳句の句数は奇数であること
についても考えてみましょう。
漢詩の文字による表示は、視覚的に明瞭に文字の配置が認識できま
す。この為、「白赤」「明暗」など対称的な美が簡単に把握できま
す。これが、音を主体とした和歌・俳句では十分に認識されにくい
と思います。これは、視覚の情報量と聴覚の情報量の違いを考えて
みれば納得できるかと思います。
従って、漢詩は、対句などに代表される「対称美」の究極の姿とし
て偶数句の構成が完成した。和歌・俳句は「対称美」の意識が希薄
なまま情緒的感性の究極の姿として奇数句の構成が完成した。

以上のように考えております。