桃李歌壇 連歌と俳諧

交換留学生と芭蕉を語る

 1998年4月より、縁あって、半年ほど留学生を相手に「日本の哲学と文化」の講義と演習をしました。AIKOM(Abroad in Komaba)という企画です。駒場には短期交換留学生が22名いますが、その中12名が受講しました。国籍は、アメリカ、イギリス、オーストラリア、チリ、フィリッピン、 中国、韓国と実に様々です。殆どの学生は日本語が出来ませんので授業は、共通語として英語で講義をします。

学生のレポートの課題として、芭蕉の「古池や」の句を採り上げました。 芭蕉についても俳諧についても予備知識は全くない学生が殆どでしたが、とにかく率直に感想を述べて貰いましたので、それをここで紹介しましょう。(レポートの原文は英語ですが その抄訳を載せます) 

ハリ・プラボーヴァ君( 23才男子学生、カジャマダ大学出身)

古池や蛙飛び込む水の音
The old pond ah! A frog jumps in; The water's sound!

6ヶ月前に最初に日本にやってきたとき、俳句については何も知りませんでした。 いまでも良く理解できたとは思いません。ですから、文学も詩もどちらも勉強したことのない素人として、私は俳句を知的に分析するのではなく、ただ芭蕉のこの句を理解しようと自分なりに努力した、その結果を印象記として報告します。

 日本人の友人によると、俳句には独自の様式と性格があって、一つの俳句が実に多様な解釈を許容するのだそうです。 しかし、私には、芭蕉のこの句は、インスピレーションないし新しい着想を探し求めるプロセスを示しているような印象を受けました。

どんな人も−学生もサラリーマンも主婦も子供も−人生において多くの「問題」に直面しなければなりません。「問題」は、ここでは非常に広い意味にとって下さい。この世で生きることはもはや価値がないと感ずる人に生ずる「問題」もあれば、宿題をしなければならない小学生に生じる問題もあります。問題に直面すれば、人は精神を集中してそれを解決しようと務めねばなりません。

この瞬間に必要なものは、沈黙と孤独であって、それがあって初めて集中できます。 もっとも、そんなとき、緊張したり真面目であったりする必要はありません。それとは反対に、リラックスして日常の些事からしばらくの間逃れる必要があります。

最後に解答を発見したとき、私たちは、あたかも、古池の静寂と孤独のうちに佇み、蛙の飛び込む音が聞こえた詩人のように感じるでしょう。

古代の有名な科学者アルキメデスは、風呂に入ってリラックスしたときに、有名な彼の定理を発見したと言います。「分かったぞ(Eureka)!」と叫んだとき、アルキメデスには蛙の飛び込む水音が聞こえたのです。

誰しも人生で多くの問題に直面しますから、 誰にもインスピレーションが必要です。 しかし、多くの人は、インスピレーションは平和なリラックスした気分の中に訪れるということを忘れているように思います。

そこで、私が薦めたいのは、インスピレーションが必要なときあまり緊張せずに、ただ楽な気分でいなさいということ、そうすれば、ものをよく考えることができて、たぶんあなたにも蛙の飛び込む水音が聞こえてくるだろうということです。
 
P.I.A君 (24才男子学生、チリ、カトリック大学出身)

鈴木大拙のエッセイを読む前は、 私は芭蕉の俳句を単に文学作品として
−含蓄豊かな深いイメージを簡潔な言葉に盛る一種の詩として−理解していました。 俳句を読むとき、この二つの点、イメージの豊かさと表現の簡潔さが注意を惹きます。

この二つの特性の故に、俳句は日本の非常に特殊な詩型と見られていますし、さらに様式の純粋さと清澄さを付加すれば、俳句は究極の所、日本の精神を内に孕んでいるように見えます。

日本の精神は禅の精神でしょうか? 

この問いに答えるのは、今の私には難しいのですが 鈴木大拙のエッセーを読んだ後では、俳句は、芭蕉以後においては、禅の一表現であり得たと思います。

 禅の哲学に深く動かされた芭蕉は、その作品の中で禅的なメッセージ
を吐露しています。 鈴木大拙は俳句を作る正しい方法について、どのよう
なイメージと観念と直観を呼び起こさねばならないかについて実に明晰に
書いています。鈴木は俳句を読む単純かつ軽率な仕方を戒め、俳句をそれに相応しく読む手掛かりを与えています。

「伝えられる意味を読みとる訓練が出来ていない人」には、俳句のイメージは完全には分かりません。彼らは、ありふれた日常的な対象が枚挙されるだけだと感じて、それ以上の深い意味を理解する訓練が出来ていないのです。

 さて、問題は、俳句の良き読み手となるにはどうすればよいかということです。鈴木のテキストから、俳句の良き読み手となるための手掛かりが得られます。たとえば、良き読み手は、「日常的な対象の枚挙」の彼方に更に進んで集合的な無意識のうちにその深き意味を尋ねなければならないといったところです。

 「古池や」の句を最初に読んだとき、単に永遠の静寂、静けさの観念のみが私の心を占め ましたが、この句を繰り返し読むたびごとに、新しいことが分かってきました。

まず、永遠の静寂ではなく、永遠そのものの観念が私の注意を惹きます。
何時からあるのか分からなくとも、「もの」は真理と同じく、そこに堅固な具体的な姿で存在しています。蛙も水音も束の間の過ぎ去る現象で、出現するやいなや消え去り、時に、永遠なるものの安定を破るように見えても、すぐに万物は正しい秩序に復します。

時を越えて、あらゆるものがイメージとなり、直観となり、集合的無意識の一部となる「時間なき時間」の側に行く円環です。
自我が集合的無意識の一部となる瞬間です。実在を観想し俳句(そして禅)の最奥の意味を捉えることが出来ても、意識的に考えたり直観したり出来ないものを言葉で如何に表現するかという問題が残ります。

おそらく、俳句は論理的に説明されたり分析されるために書かれるものではなく、無意識のレベルで受けとめられ、消化されてはじめて、真実のメッセージを伝えることが出来るようになるでしょう。

(絵馬注:文中で言及される鈴木大拙のエッセーとは、『禅と日本文化』所収の大拙の俳句論です)

長くなるので、留学生のレポートをすべて紹介するわけにいきませんので、二つを選んで紹介しました。皆様が、これを読んでどんな感想を持たれたか、国際交流にもなりますので、お聞かせ戴ければ幸甚です。