連歌と俳諧

交換留学生と良寛を語る

良寛の和歌を読む

Aikom の交換留学生と共に  田中 裕(絵馬/東鶴)

前回、東大駒場の交換留学生の句会の模様をお話ししましたが、先日は、良寛を題材にして、感想を書いて貰いました。和歌は、晩年の良寛と貞心尼との相聞歌です。この相聞歌、百韻や歌仙などとは違いますが、広い意味での連歌と言って良いでしょう。

(ちなみに桃李歌壇の「連作短歌」の部屋は、この相聞歌の形を手本にしています)

芭蕉については、交換留学生は、大変に素晴らしい感想を寄せてくれましたので、今回は、良寛について、日本に来て間もない若者達がどんな反応をするか、関心がありました。まず、貞心尼の編纂した歌集「蓮の露」から、

 師、常に手鞠をもて遊び給ふとききて奉る

これぞこの ほとけの道に遊びつつ つくやつきせぬ みのりなるらむ (貞心)

つきて見よ ひふみよいむなやここのとを とをとおさめて またはじまるを(良寛)

Playing temari with the village children
You enjoy walking the Buddha's path
How fruitful and inexhaustible it is !
  

TEISHIN

Won't you bounce the ball?
One, two, three, four, five , six, seven, eight, nine,
Ten is the goal,
You must repeat again!

RYOKAN

村の子供達と手鞠をして遊ぶ良寛のイメージは、年輩の日本人には親しいものですが、留学生には、良寛についての予備知識は全くありませんから、まず手鞠とは何かを(写真入りで)説明することから始めました。うっかりすると、サッカーのようなものと勘違いされますからね。貞心尼が初めて良寛の庵を尋ねたときに、折悪しく良寛は不在だったので、彼女は手土産として持参した自家製の手鞠にここで引用した短歌を付けて立ち去りました。要するに、貞心尼は、この歌によって、良寛に弟子入りしたいという気持ちを、それとなく詠み込んだ訳です。

 さて、貞心尼が良寛と始めた面会したときの歌のやりとりも「蓮の露」には収録されていますので、それについても感想を書いて貰いました。

君にかく あい見ることの うれしさも まださめやらぬ 夢かとぞおもふ (貞心)

ゆめの世に かつまどろみて夢をまた かたるも夢よ それがまにまに (良寛)

Was it really you
I saw,
Or is this joy
I still feel
Only a dream?
TEISHIN

In this dreamworld
We doze
And talk of dreams
Dream, dream on,
As much as you wish.
RYOKAN

 

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Pablo J. Arancibia (チリ・カトリック大学男子学生、23才)の感想

 「仏陀の道」に旅人がいます。 「行く人」として、この人は、一歩もとどまることは出来ません。これまでに何度となく止まろうと思い、どれほど長い道のりを歩いてきたとしても、彼は更に先を歩まねばならない。良寛の返事にそのような厳しさを感じました。

「一、二、三、四、・・・・十とおさめてまた始まるを」

到着点は終着点ではありません。ゴールをめざして努力に努力を重ね、一歩また一歩と歩んでいく、その一つ一つから「また新たに始まる」のが仏道というものだ、ということを良寛は、私たちに教えているように思います。

 

Andres Rodiriguez (チリ・カトリック大学23才男子学生) の感想

 

良寛と貞心の間の歌のやりとりは、世俗の世界の真っ直中に、人生の奥深さが深く染みわたり共生(a wonderful symbiosis)している様を伝えています。手鞠を詠んだ良寛の返歌は、私の考えでは、まさにこのことを示しています。手鞠のような「遊び」が人生行路のシンボルとなります。「遊び」には、いつか終わりがありますが、良寛が言っているように、それは「また始まる」ものなのです。「つきて見よ」と言っていますから、良寛は、貞心にも仲間に加わるように、暖かく勧めています。しかし、それは、私たちが、本来自分自身でしなければならないゲームであり、おそらくそのゲームの規則も自分で発見しなければならないのです。

もう一つ大切な問題は、実在(reality)とは何かということで、それは良寛の「夢の世」という言葉に表されています。貞心の歌は、初めての出逢の喜びを率直に詠んだともとれますが、彼女は、真実にあるものと夢の世界とを区別したうえで、自分が今経験していることが夢でないことを願っています。これに対して、良寛は、夢も実在も区別していません。

そのような姿勢が良寛の返歌、「夢の世に・・・それがまにまに」に良く現れています。

たとえ、はかない夢の中にあって、夢物語を語っているときですら、私たちは至高の実在に触れている---そのように良寛は言っているようです。

良寛の臨終の時に貞心の捧げた歌と良寛の辞世の歌には撃たれました。

「生き死にの 界(さかひ)はなれて 住む身にも さらぬ別れの あるぞ悲しき」

ここでは、貞心は押さえ切れぬ「悲しみ」と、生死の世界を克服すべき仏教者のあるべき姿とのあいだに引き裂かれ苦しんでいます。

これに対して、良寛の辞世、

「かたみとて何残すらむ春は花夏ほととぎす秋は紅葉ば」

は真心と智恵に溢れ、静謐な印象を受けます。これは、人生をあるがままに受け入れた人の歌。推移する時の回帰、後に俳句で季題とよばれるようになった、その時々の情景とともに詠みながら、未来の読者に向かって、自然の中のあらゆるものに目を向け、それらを慈しむようにと、良寛は教えているように思いました。

 

Mimi Yvette H. Tan (フィリッピン大学21才女子学生)の感想

 

良寛と貞心との歌のやりとりについて、私は、ただただ美しい、という以外、何も言えません。最初にこの相聞歌を読んだとき、良寛は僧侶で貞心は尼僧なのですから、このような恋歌がゆるされて良いものかしらと不思議に思いました。カトリックでは、独身の誓願というのがあって、司祭も修道女もあらゆる種類の性的な欲望を捨て去ることが要求されます。仏教も同じではないかと思っていましたので。授業中にこのことを質問しましたところ、大乗仏教の「悲(カルナー)」は、キリスト者がアガペーと呼ぶ「divine love」に対応すること、それは、「世俗の愛」を破棄せずに完成させるということ、それは、マグダラのマリアのイエスに寄せた愛などを例にとった説明がありましたので、あらためてこの相聞歌の意味が分かってきました。

 今、私は、この相聞歌の美しさがずっと良く分かるようになりました。 歌のどの言葉にも美があります。良寛と貞心との間の愛の純粋さ、その言葉遣い、相手への優しい思いやり、その全てに、私は強く惹かれます。