講演者: 田中裕 (東鶴)
エラノス学会での講演
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その 3
私はかつてアメリカの学会で発表した論文The Topos of Nothingness and the
World Process (これはインターネット上でも読むことができます) の中で、純粋経験の「純粋」とはいかなる意味かを光の三原色との類比で論じたことがあります。
人間の目が識別できる色の種類は千数百万色と云われておりますが、これらはいずれも赤緑青の三原色から合成されます。しかし、色の合成は「光の三原色」の合成と「絵の具の三原色」の合成とでは事情が違ってまいります。 絵の具の場合は、異なる色を混合すると次第に明度が下がり、三原色をすべて混合すれば最後には、真っ黒になります。その理由は、事物そのものに色があるわけではなく、すべての色は光の中に含まれていることに起因します。事物は光を反射するときにある特定のスペクトルのものを吸収します。するとその吸収された色を除く光が見えてくるわけですから、沢山の色を混ぜると次第に暗くなって行くわけです。 これに対して、光の三原色を混ぜていくとどんどん明度がましてすべての色を混合すると無色透明の澄んだ光になってしまいます。色が全くない状態というのは、光の場合はすべての色がそこに共存しているという意味で、色彩が充満している状態なのです。最も純粋な光というものは、このようにそれ自身は無色透明でありながら、プリズムを通せば、千変万化する極彩色の世界を現出しうるものであることに注意したいのであります。 西田の云う純粋経験は、知情意という心の三つのあり方がすべてそこに潜在的に含まれている純粋な光になぞらえることができるでしょう。我々の経験とは具体的な一つの全体です。知情意はそこから抽象されたものであり、最初から別々のものとしてあるのではありません。すべての色があるような場所は、それ自身として取りあげれば純粋な光の充満した「無色の」場所です。 通常の意味での経験論者は、「純粋な」経験によって知性や意志などを排除した感覚与件の受容を意味していたことは前にもうしました。このような経験は、知性の働きが加わっていませんから形なき混沌となりますが、それに形を付与するものは感覚とは別個の能力と云うことになっております。このような混沌は、ありとあらゆるものが共在しておりますのですべての絵の具の色をまぜあわせたときに生じる暗黒になぞらえることができます。つまり、根源的でない経験論で語られてきた「経験」とは、純粋経験の光そのものではなくて、そこから抽象されたものなのです。 抽象された経験からは自ら形あるものを生みだす活動を期待することはできません。それは、単なる経験の素材を提供するものと見られ、外部からの処理を待つことになります。他方、知性のほうも、感覚的な経験から切り離された空虚な思弁となり、これも又外部から内容が与えられなければ働かないといったことになります。観念的なものと物理的なものの二分法は、実は我々が経験というものをその具体相でとらえ損なったところから生じます。 さらに、経験する主体が、世界のただ中において立ち現れると云うことを先ほどもうしました。 我々は経験と共に自らを変革して行きますが、そのことはいかにして可能となるのか。自我が実体であるならば、根底において主観そのものが変貌することを語ることはできません。経験を通して変わらないない不変の実体というのが幻想であるとしても、人格の同一性は経験的に説明されねばなりません。 個は個に対して個であるとは西田の言葉ですが、実は人格はそもそもの初めから他の人格との交わりの中にあります。他者の影響を被ることによって自己の同一性と共に自己自身の変革と云うことも成立してまいります。世界から立ち現れた自己が、自己を確立すると共に世界を変革するという運動が我々の自己のあり方なのであります。 このように、個人があって、経験があるのではなく、経験あって個人があるという経験の具体相にあくまでも忠実な立場こそ純粋経験論であります。それでは、この純粋経験論が、場所の立場に深められたときに何が起こったのかを考えてみましょう。 「場所」という語を哲学や神学の文脈で使ったのは、決して西田が最初ではありません。すでに旧約聖書の注解であるミドラシュには、世界の「場所」(マーコム)として神を語っている文献があります。周知のように、ユダヤ教では世界の中に神が顕現するという考えを汎神論として退けます。しかし、世界が神の中にあるといういわゆる「万有在神論」の方は、昔からユダヤ教の考えと一致するものとして受容されていました。イスラエルの科学史家であるヤンマーによりますと、ニュートンの物理学の根本にあった「絶対空間」というアイデアにはこの伝統が大きく影響したそうです。この場合、現実の世界が有限な限定されたものであるのに対して、世界の場所としての神は、無限の可能性を秘めたありとあらゆる力の源泉としてイメージされております。 しかし、ヨーロッパでは、このような形而上学的な空間概念はむしろまれであって、それよりもむしろ哲学的には時間的なもののほうが重視されていたということができます。たとえば、「存在と時間」が出版された頃のドイツに渡り、ハイデッガーの精緻な時間分析に接した和辻哲郎は、場所的契機が人間にとって時間に劣らず重要であることを強調しています。彼の名著「風土」は、直接にはハイデッガーの時間的な実存分析を補完する意味で書かれました。 和辻は、この「風土」の中で、人間とは「人と人との間」つまり「付き合い」において自己形成をするのだと言っております。自己は自分の内面に閉じこもっていても発見されることはない。むしろそれは外に出て世界と他者に交わることによって初めて自己を発見するのです。 (つづく) |
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